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​体外受精を経験されたみなさんとともに

受精の瞬間に、ひとりの人が誕生すること。目に見えない受精卵や胚に、わたしたちと同じ「いのち」が宿ること。それは、キリスト教を信じる者にとって譲ることのできないもっとも大切な教えにちがいありません。おそらくキリスト教徒でなくとも、日本人の多くも同じような思いを抱いているのではないでしょうか。やっぱり、胚だって、いのち。

現行の体外受精という技術では、未使用のまま終わる胚ができてしまうことが避けられません。現代科学は、ヒト胚を人とはみなしません。いのちや霊魂を不問にしなければ生殖補助医療は成り立ちません。しかし頭では整理ができても、人間の心は合理的に割り切れるものではありません。体外受精を経験されたみなさんの中で、キリスト教的な罪の意識を感じる方も少なくないのではないでしょうか。

母の胎を知ることなくこの世から亡くなった凍結胚は、産まれてくる子どものために犠牲となった尊い小さないのちです。人生の長旅を終えた故人と同じように、ひとりの人として弔ってあげませんか。この世に賜った霊魂を永遠の安息に導くための祈りを捧げませんか。そして、ひとつの胚の誕生と終焉に関わった、現代社会に生きるわたしたちすべての慰めを願いませんか。

カトリック教会でおこなわれるミサは、イエス・キリストの死と復活を記念するキリスト教の祈りの最高の形式です。カトリックの司祭による世界共通の普遍の定型の祈りです。日曜日だけではなくミサは毎日おこなわれます。司祭ひとりでもミサは捧げられます。通常のミサの中に特別な「意向」が加えられることがあります。司祭が依頼されるおもな意向が、命日を迎える故人のための祈りです。

小さないのちにも命日があるでしょう。あなたが胚の移植を諦めたその日です。あるいは凍結保存の中止を決めた日です。そして、故人となった小さないのちに名前を与えましょう。霊名です。よろしければわたしたちが名付け親になります。命日と霊名を願い出れば、ミサの中で司祭とともに鎮魂の祈りが捧げられます。生者と死者のためにミサを捧げることは司祭のつとめですが、小さないのちが確かにこの世に存在したことを証しできるのは、あなたしかいません。あなたの協力なくして、小さないのちを弔うことはできません。

小さないのちの救霊がとりわけ大切に思えるのは、それが体外で誕生しそのまま母の胎を知ることなくこの世の生を終えているからです。亡くした胚は、水子ではありません。どんな最後だったにせよ、水子にはそれまでに母と一体だったかけがえのない時間があります。ところが、まったく母を知らずに去った霊魂はどうなるのでしょう?神のみぞ知るです。だから祈るしかありません。

 

あなたが母になることを諦めても、胚はいのちが尽きるわけではありません。まだそこに存在します。そのとき胚は”孤児”です。孤児なら社会が保護するべきです。誰か善意の人の胎に戻って、その人の子になることもできたかもしれません。でも、遺伝情報に重きを置く現代社会は、胚を生存させる他の可能性を認めません。最終的にひとつの胚を失う結果に関しては、その所有権を放棄した(あるいは放棄させられた)あなたではなく、この社会を構成するわたしたちの責任です。罪と云うなら、「胚棄」は個人の罪ではなく人類の罪です。

 

ミサは信者のためだけでなく、すべての個人と人類の救いのために捧げられます。母の胎を知ることなく胚のまま亡くなった小さないのちのために祈るミサを捧げましょう。これまでに数えきれないほどの胚が亡くなっていることを思うとき、これからは毎日のミサが小さないのちのミサになりましょう。わたしたちが特別なミサの取り次ぎをします。小さないのちのミサ意向を、わたしたちに賛同してくれる全国各地の司祭に依頼します。体外受精を経験されたみなさんとともに、特別な存在の救霊を求める祈りの輪が広がることを願います。

 

※(参考)教会法901条:「ミサは生者死者を問わず、すべての者のために捧げることができる」

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小さないのちのミサで捧げる亡くした胚の情報をお知らせください

ミサの日時・場所を確定する前に一度ご連絡を差し上げます。

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