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LGBT vs プロライフ



東京教区宣教司牧方針策定への協力のお願い

カトリック東京教区の教区長である菊地功大司教が、教区の信者たちから「提言」を求めておられる。「東京教区宣教司牧方針策定への協力のお願い」である。元旦の東京教区ニュースの一面で大司教様が直々に呼びかけられた。会社でいえば、今後の経営方針の参考になる提案を社長が全社員に向けて願い出るようなものである。グループで話し合って文書にして聖霊降臨(6月9日)を目処に提出してほしいと、締め切りまで明記されていたところから、大司教様のひとかたならぬ強いご要望であることがうかがえた。

この教区長の異例のリクエストにこたえ、ただちに「提言」に取り組もうとしたグループが2つある。

ひとつは、”LGBT”のグループである。LGBTCJと称するグループ(※CJとはカトリックジャパンのことか)の主宰者が自身のウェブサイト上で菊地大司教への提言をおこなおうとグループのメンバーに協力の呼びかけをしていたことが確認されている。すでにそのウェブサイト上では提言の具体内容まで公にされているのかもしれないが、それは与り知るところではない。ただ、教区の中の“一つのグループ”として、このたびの教区長の呼びかけをチャンスと好意的に受けとめ、意欲的に提言づくりに向かおうとしていたことは確かである。

そして、このチャンスに大司教様に提言を出そうと意気込んだもうひとつのグループが、”プロライフ”のグループである。毎月第二木曜日に松戸教会でおこなわれている「プロライフのためのミサと祈り」に集まる有志たちである。こちらのグループによる提言は早々に作成され、聖霊降臨のずっと前、神のお告げの3月25日にすでに菊地大司教に文書が提出されている。

ところで、LGBTも、プロライフも、いまだ日本の教会ではあまり馴染みのないことばだろう。上の2つの当該グループとは関わりのない、だいたいの日本の信者さんにとっては馬耳東風ではないか。ミサ後のお茶会などでLGBTあるいはプロライフのことを話題にしようとしても「はあ?」と返されることがほとんどである。しかしカトリック教会が世界宗教であるなら、LGBTにもプロライフにもあまり馴染みがないというのは実は異常なことである。

LGBTとプロライフがせめぎ合うカトリックの"いま"

良くも悪くも世界から孤立する日本の教会は、カトリックの激動の”いま”を生きていない。LGBTとプロライフ。その2つは、カトリックの”いま”を写す鏡である。それがレンズであるならば、極端に焦点の異なる2つの鏡である。LGBTに傾くカトリックか、プロライフに根ざすカトリックか。乱反射するその両極のせめぎ合いのうちに、カトリックの”いま”がある。

まったく相異なる立場でありながら、上の2つのグループが同じように意気揚々と取り組んだ大司教様への提言は、いみじくも、もっと日本の教会もカトリックの”いま”を生きなさい!と寝た子を起こす喇叭であったかもしれない。この先、どちらの喇叭の音が馬耳東風の日本の信者さんの耳に届くことになるのだろう。己の信仰の琴線に触れることになるのはどちらの音色なのか。そして目を覚まされたとき、己の目の前にある真理のレンズは、果たしてどちらに焦点があたっているだろうか。

LGBT vsプロライフ。大衆誌風の煽り見出しで申し訳ないが、決して大袈裟ではない。それが、異端論駁を繰り返してきた二千年の歴史の上にあるカトリックの”いま”なのである。信者であればどちらかに軍配を上げなければならない。どちらかに軸足を置かなければならない。あるいはどちらかを踏み絵にしなくてはならない。どちらにたいしても馬耳東風であることはもう許されない。世界のカトリック教会から蚊帳の外だった日本においても、その両極のせめぎ合いが始まるのだ。このたびの大司教様への提言を契機に、たたかいの火蓋が切って落とされた!と言っても過言ではないだろうと思う。

《新しいカトリック》と《古くからのカトリック》。LGBTおよびプロライフという運動のかたちで表出される両極のせめぎ合いを、そのように言い換えることができるだろう。おそらくLGBTのグループは、たんに性的マイノリティの立場を教会でも認めてほしいと訴えているのではない。カトリックを新たに作り替えようとする壮大な野心によって彼らは駆動されているのではないだろうか。《新しいカトリック》は、LGBTとともにある。そして《新しいカトリック》は、あろうことか、反カトリックなのである。

反カトリックを受け入れる新しいカトリック

「女性同性愛」、「男性同性愛」、「両性愛」、「性同一性障害」、その4つの性的志向を表わす英語の頭文字をとった略称によってLGBTと言われるのだが(昨今さらに「性愛無関心」を意味するQが加わってLGBTQとするのが適切らしい)、それは元来カトリックが絶対に認めることがない、不変の「ドグマ」に反する性的志向の総称にほかならない。確かに日本人には馴染みにくいそんな英字を使わなくとも、LGBTの代わりにそうした性的志向を端的に「反カトリック」と言ってしまえばいい。カトリックの名のもとに反カトリック(=LGBT)の活動をしているのであり、東京教区では反カトリック(=LGBT)のためのミサが定期的におこなわれているのである。

それは何も語義矛盾ではない。むしろそこにこそ、カトリック教会におけるこの《新しいカトリック》の運動の可能性があると言うべきだ。運動に関わる当事者たちにもその自負があるはずだ。《新しいカトリック》は反カトリックを寛容に受け入れる。反カトリックを受け入れるからこそ《新しいカトリック》なのだ。《新しいカトリック》には正も反もない。これからは、何もかも受け入れる”多様性”の坩堝がカトリックなのだ、というのが《新しいカトリック》の主張となるであろう。

LGBT運動がシンボルとする”多様性”を示すというレインボーカラーにカトリック教会を染めあげていくこと。それがLGBTCJさんたちの究極の目的ではないか。そこには争いもなければ「悪」もない、と彼らは考えるだろう。レインボーの御旗のもとで、カトリックから悪も地獄も罪も消え去ることを夢見ているだろう。同性愛を認める《新しいカトリック》の色が見えてくるならば、堕胎さえ悪とされることがない”平和”な日が訪れるのもそう遠い先のことではないかもしれない。

反カトリックを斥ける《古くからのカトリック》

LGBTのグループにとっては希望であることが、《古くからのカトリック》を継承するプロライフのグループにとっては危機となる。《古くからのカトリック》は、もちろん反カトリックを認めない。「現代化〜アジョルナメント」がおこなわれた今日でも、反カトリックに対抗する昔ながらの異端論駁の姿勢をとらざるをえない。それゆえプロライフは”好戦的”と揶揄されもする。プロライフの教書というべき聖ヨハネ・パウロ2世の回勅「いのちの福音」は、明らかに宣戦布告の書である。プロライフ(Pro-Life)とは、世の中的には産まれる前のいのちを守る活動であるが、カトリック的には堕胎という究極の悪を斥ける運動である。

《古くからのカトリック》の信仰を守るために堕胎を意図した妊娠中絶にはNOと言わねばならない。松戸教会の有志を含む世界のプロライフはそう考える。もちろん敵愾心からではなく、愛をもってNOと言うのである。

世界から孤立する日本では、ようやく松戸教会で動きが出てきた程度でプロライフの認知などほとんど無いに等しいが、世界に11億人いるカトリック人口の半分以上は、「いのちの福音」を読んだことはなくても、まさしくプロライフが現代における福音であると信じているだろう。

No Pro-Life, No Catholic〜プロライフでなければ、カトリックではない。《古くからのカトリック》の側にいる人々の言い分であり、合言葉である。

世界経済を動かすLGBT vs 若者が支持するプロライフ

LGBTは性的マイノリティのための運動とされているが、いまや世の中的にはメインストリームとなってしまった。LGBTのイベントのスポンサーに錚々たるグローバル企業が名を連ねているように、LGBTは世界経済を動かすメジャーなアジェンダとなっているのである。莫大な宣伝資金が投入された大キャンペーンが全世界規模で拡大中である。LGBT運動に乗れなければ、LGBTに「いいね!」しなければトレンドから取り残される。まだそれに関与していない企業担当者もそんな不安に駆られるだろう。各国で同性婚が法制化される流れは強まる一方である。LGBTを推奨するプログラムが公教育の現場にも導入されるようになっている。

そして、世の中の勢いがそのまま教会に押し寄せる。そこでLGBTとプロライフの攻守をとおして、《新しいカトリック》と《古くからのカトリック》がせめぎ合う。《新しいカトリック》の色に浸食されて、《古くからのカトリック》は後退を余儀なくされるのだろうか。現在はまだ全カトリックの半数以上と思われるプロライフ人口は縮小していくことになるのだろうか。

むしろプロライフが持ちこたえることで、《古くからのカトリック》が盛り返す機運も見出せるのではないか。LGBTの祭典であるPRIDEとプロライフの祭典とも言いうるMarch for Lifeを見比べてみるといい。中高年層が目につくのは前者で、後者は10代、20代の若者の多さに圧倒される。新しいカトリックのほうが必ずしも若者に支持されるわけではないようだ。若者はなんでも新しいもの好きという見方自体が時代遅れなのかもしれない。プロライフに出会うことで若者が教会に戻ってくる傾向は世界的には顕著である。

《新しいカトリック》の土壌が育まれている日本

しかし世界のカトリックの動向が日本にあてはまるかどうかはわからない。世界から孤立している日本ではあるが、この半世紀、”新しくなければカトリックではない”とする風潮が止むことなく、カトリックの信仰の遺産は神経症的に排除され続けてきた感は否めない。日本は着々と《新しいカトリック》を受け入れる土壌を育んできたのかもしれない。その意味で、LGBTのグループが攻め入るチャンスは大いにあるだろう。一方、形勢不利にみえる状況で、プロライフのグループがどこまで巻き返す底力を発揮できるだろうか。

LGBTのグループ、プロライフのグループ、それぞれが菊地大司教に提出した提言のその後の展開を見守りたい。少なくとも来年の今ごろは、LGBTにたいしてもプロライフにたいしても、信者はもはや誰も馬耳東風ではいられない状況がうまれていることを期待したい。

《新しいカトリック》と《古くからのカトリック》。自分にとってどちらが都合がよいか?という話ではない。問題は真理である。真理はどちらにあるか。真の平和はどちらにあるか。神の愛はどちらにあるか。その判断材料を個々の信者に示すことが「宣教司牧指針」なのかもしれない。

また、それ以上に、世の中のひとたちは、どちらの《カトリック》に期待するだろうか。そこは極めて重要なポイントである。日本はカトリック人口が0.35%という、紛れも無い世界最大の「未布教国」である。99%のキリスト者ではない日本人に、カトリックはどうアプローチできるのだろうか。

宣教司牧指針策定にマーケティング発想を

現代の未布教国にたいする「宣教司牧指針策定」にはマーケティングの発想が不可欠だろう。《新しいカトリック》と《古くからのカトリック》。それはマーケティング的にも使えそうな切り口(コンセプト)ではないか。キリストを知らない多くの日本人に福音として響くのはどちらなのか。リサーチしてみれば、きっと有意義で興味深い答えが出てくるだろう。

カトリック教会が公式に日本社会に向かうとき、いつも反対の声ばかりがあがっていたように思える。死刑制度反対、憲法改正反対、原発反対、新天皇即位式への公費拠出反対などなど。しかしマーケティングという観点に立つならば、カトリック的な価値を体現しているとみなせる世の中の個々の事象にたいし、カトリックとして称賛の声をあげることが必要ではないかと思う。それが単純に世の中にたいするカトリックのアピールになるだろうし、さらには、未布教国の社会の中に秘められたキリスト教の真理を捜し当てる「inculturation〜インカルチュレーション」の実践とはそういうことなのかもしれない。

たとえば《新しいカトリック》の立場から、性同一性障害の悩みを克服し女性同士でありながら真面目な”夫婦”として生活するカップルを祝福し称賛の声をあげる。あるいは《古くからのカトリック》の立場から、妊娠中に子どもに重い障害があることがわかっていながら産み育てている家庭を祝福し称賛の声をあげる。そのどちらを採ることがマーケティング的な「差別化」となるだろう。どちらも同じように祝福すればいいというのは無理な相談だ。それでは世の中的に「カトリックってなんなの?」ということになってしまう。

周囲の偏見に屈せず同性愛を貫いたカップルを称賛するのと、困難な妊娠にもかかわらず産む決意をした女性を称賛するのと、どちらの《カトリック》がより多く「いいね!」を獲得できるだろう。ひとつ、そういう視点から「宣教司牧指針策定」がおこなわれることを望みたい。

新しいカトリックか、古くからのカトリックか。 宣教司牧の「指針」は、どちらに向かうだろう。

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